今日はtwitterの連続投稿で良いお話があり、RTしようと思ったのですが、7話もあるのでやめました。
こちらにそのまま転載させていただきます。
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スティーブ・モリヤマ (@stevebrussels)
①25年前、僕はドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴを旅していた。街を歩くと、数え切れない物乞いの子供たちに囲まれる。どこに行っても囲まれる。すぐに小銭がなくなってしまう。発展途上国の貧困の現実を目の当たりにして、無力感に苛まれた。数日後、キリがない、と無視することにした。 --
②その後、僕はロンドンで働き始めた。不況で街じゅうに、若いもの乞いがいた。でも、発展途上国と違って、彼らは小奇麗な格好をしている。手厚い失業手当をもらっているのだろう。僕は、そんな彼らとは一度も目を合わせたことがない。あえて、見ないようにしてきた。
③一方で、あのサントドミンゴでの経験がいつも心の片隅にひっかかっていた。どこへいっても、ストリートチルドレンに囲まれる。でも、数が多すぎて、全員にめぐんであげることができない。きりがない。ある日、私はピザを一枚少年たちにあげた。すると、一番年上の少年がそれをひったくっていった。
④一瞬あっけにとられた。次の瞬間僕はその少年を憎んだ自分を恥じた。彼は、そこにいた少年たち全員に、きちっと等分に分けたのだ。一人一人には、とっても小さなかけらにしかならなかったけれど、僕はそこに美しさを見た。
⑤それから僕はずっと「義を見てせざるは勇なきなり」という父祖伝来の日本人の美徳について考え続けてきた。最初の頃、どうしても「勇」という言葉に囚われてしまって、力んでしまう。そうすると、うまく自分の中で落とし込めない。そんなジレンマに陥りながら、ある日、僕はタイの歩道橋の上で(続)
⑥暑さで汗をびっしょりかいて寝ている赤ん坊を抱いた若い女性の乞食と目があった。一瞬、「きりがない」という思いがよぎる。だが、どういうわけか、次の瞬間、僕は持っていたコーラとミネラルウォーターを渡した。すると、彼女は手を合わせて僕を拝む。そこで、はっきりと、あの言葉の意味がわかった --
⑦結局、世界70億人の中で一瞬でも接点ができる人の数は限られていて、それは全て「ご縁」といっていい。「義」というのは、そういうご縁を「きりがない」で終わらせるな、見て見ぬ振りをするな、ということ。肩に力をいれずに、できることをすればいい。それをあのタイの少女は僕に教えてくれた。
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転載終了
私はこういうお話に弱いのです。
電車に乗っていたので、突然まいりました。
汗を拭くふりをして、目の汗を拭きました。